馬超は、蜀の武将であり、劉備が益州の劉璋を包囲していた頃に劉備に密書を送り降伏を申し入れたことで、劉備の幕下に加わった人物です。
意外かもしれませんが、馬超は、劉備配下に加わったのは214年のことであり、亡くなったのが222年なので、実に8年間しか蜀の武将として活動していないのです。
そんな馬超ですが、漫画版の印象では「父や弟の復讐に燃える勇猛果敢な若獅子」といったところではないでしょうか。
父や弟たちが曹操の罠にはまって理不尽に討たれてしまい、その復讐のために涼州の地から曹操軍へ戦いを挑む若者の姿は、読者の心を捉え、漫画を読んだ人の間では趙雲と並んで人気のある武将と言えます。
それでは、史実における馬超はどのような人物だったのでしょうか?
父や弟が討たれたのは馬超のせい?!
漫画の馬超像を大きく崩してしまうことになりますが、史実では馬超は父や弟たちの敵討ちで曹操を攻めたのではなく、曹操が漢中の張魯を討伐しようという動きを見せた際に、自分の領地に攻め入られると勘違いして反乱を起こしたのです。
その際、馬超の父である馬騰や弟である馬休らは曹操の領地である鄴にいたのにも関わらず、馬超は「自分は父を捨てて韓遂を父とするので一緒に戦ってほしい」と韓遂に反乱を持ちかけたという経緯があります。
父や弟たちを想う馬超は漫画だけの話であり、実際の馬超は自分の保身のために家族をも犠牲にする冷徹非常な人間であると言えますね。
実際に、馬超が曹操に敗れたとき、降伏せずに涼州へ逃走したため、馬騰らは三族皆処罰される憂き目に会うのです。
なんとも煮え切らない話ですね。
ちなみに、若者イメージの強い馬超ですが、曹操に対する反乱を起こしたときには35歳であり、アラフォーの立派な大人です。
漫画版の三国志のみを読んだ人からすると、馬超のイメージが一変したのではないでしょうか。
馬超の最大の武器は対羌族
馬超も漫画版では蜀の五虎大将軍に数えられる武将ですから、「武勇の人」という印象が強いと思います。
では、史実における馬超の武勇はどうだったかというと、そこまで目を引くエピソードはありません。
馬超がまだ若い頃、馬騰が曹操への援軍として馬超や龐徳らを出陣させた際に、足に矢を受けて負傷したもののなおも戦い続けたというエピソードや、曹操に対する反乱時、曹操軍に奇襲をかけて曹操まであと一歩というところまで迫ったというエピソードが残っているので、馬超が勇猛な武将であったことはおそらく事実でしょう。
ただ、一軍を率いて大きな戦果を上げたり、数々の武功を立てたりというような事実はないため、漫画版で見られるほど勇猛な武将であったかどうかは定かではありません。
史実における馬超の最大の武器は、彼自身の武勇ではなく、羌族に心服されているというネームバリューにあります。
羌族は、長年にわたる馬一族の涼州統治を見てきたから、馬超に対して恐れをなしていたようで、対北方の守備の要として馬超は非常に有用だったのです。
だからこそ、馬超が劉備に降った際には、劉備はそのネームバリューを活かして馬超を涼州刺史に任命し、対北方の要としたわけですね。
史実では散々な評価を与えられている馬超
馬超に対する評価は、漫画と史実では全く異なります。
史実では、既に述べてきたとおり、馬超は決して正しい行いを重ねてきた人物ではありません。
そのため、季漢輔臣賛では「一族を滅ぼし軍勢を失い、道に背き徳に反した」と散々な言われようです。
そんな中、歴史書としての三国志を記した陳寿は、「馬超が一族を破滅させたことは残念だが、窮地から抜け出て安泰に至ることができただけましなのではないか」と評していますね。
自分の保身に走り、父や弟を犠牲にし、敗走を重ねた馬超ですが、最終的には劉備という主君を得て安息の地で生涯を閉じたことを考えれば、激動の三国時代においてまだましな最後だったのかもしれませんね。