馬忠は蜀の武将であり、夷陵の戦いにおいて劉備に大いに評価された人物です。
馬忠といえば、漫画では諸葛亮の北伐に随行し、王平や廖化、張翼といった二線級の武将たちにまじって活躍したイメージがあると思います。
といっても、漫画ではその人となりが一切わからず、諸葛亮の指示をこなす一介の武将にすぎないような描かれ方なので、馬忠が蜀において如何に重要な人物か知る人は少ないのではないでしょうか。
それでは、史実から馬忠の事績を紐解いていきましょう。
諸葛亮も大いに認めた蜀の南方平定の要
史実における馬忠の有名なエピソードといえば、夷陵の戦いで敗れた劉備への援軍として派遣された馬忠が、劉備と会って話したときに、劉備が「黄権を失ったが馬忠を得ることができた」と言った話があります。
黄権は、劉備から大いにその才を認められ、蜀が定軍山の戦いで夏侯淵を討ち取ることが出来たのもこの黄権の計略によるものだったと言われるほどの人物であり、そんな黄権と同等の力量があると見初められた馬忠はよほどの器だったのでしょうね。
ここで、僕が注目したいのは、劉備亡き後、諸葛亮が丞相府を開幕したときに馬忠を門下督に指名していることです。
劉備が亡くなったのが223年、そして諸葛亮が丞相府を開幕したのも同じ223年なので、諸葛亮も明らかに馬忠に期待を寄せていることがわかりますね。
そんな劉備、諸葛亮に認められた馬忠ですが、実は史実における彼は北伐に1回しか参加していません。
馬忠の主な役割は、成都に残って蔣琬の補佐として事務にあたったり、蜀の南方における反乱を平定することにあり、史実の馬忠は諸葛亮の指示のもと動く一介の武将ではなく、指揮官として蜀の南方を平らげる将軍だったのです。
ちなみに、漫画では劉備なきあとに蜀の南方で反乱がおきた際に、諸葛亮が南蛮征伐と称して蜀南方の地域を平定していく様子が描かれていますが、史実ではこの役割を担ったのが馬忠なのです。
馬忠が南方をしっかり抑えてくれているからこそ、諸葛亮は安心して北伐に出向くことが出来たわけですね。
軍事も内政も全てを完璧にこなすオールラウンダー馬忠
馬忠の特徴はなんといっても、軍事と内政の両方を完璧にこなせるという点でしょう。
馬忠は、蜀南方における軍事的功績を認められ、242年には鎮南大将軍に任命されます。
鎮南大将軍は、南方の軍事を統括する司令官に与えられる称号なので、要するに馬忠は蜀における南方の軍事の最高責任者に任命されているわけですね。
その一方で、244年、蜀の最高責任者である費禕が魏軍の侵攻を阻止するため北方の軍事に注力するようになると、馬忠は成都に留まって平尚書事に就任します。
要は、馬忠は、南方が乱れているときには蜀の軍事最高責任者として反乱を鎮め、南方が安定しているときには首都で政務の最高責任者代理として内政を一手に引き受けていたわけです。
とんでもなく有能な人物ですよね。
諸葛亮が没した後活躍すると漫画で描かれにくい
こんなにもすごい馬忠がなぜ漫画ではあまり活躍しないかというと、南方の軍事責任者なので魏や呉との争いに参加する機会に恵まれなかったことと、諸葛亮が没したあとに主に活躍したこと、この2点があげられるのではないでしょうか。
基本的に、漫画版三国志では、劉備の挙兵から諸葛亮が没するまでを主に描いているため、諸葛亮なきあと活躍した武将はなかなか活躍の機会を与えてもらえず、歴史の闇に埋もれていってしまうのです。
とても悲しいことですが、それでも、史実をよめばこんなにも素晴らしい人物がいたのだということがよくわかるので、漫画にとどまらず史実にも触れていきましょう。