ゆるさんの自己紹介

魏の陳羣長文!魏の三公に昇る重臣は昔劉備の部下だった?!

陳羣は魏の政治家であり、曹操が呂布を滅ぼした際に曹操に従えた人物です。

漫画版三国志では、具体的な活躍は特に描かれていません。

陳羣は魏で活躍した人物であり、しかも武官ではなく文官として政治に携わっていたので、蜀の劉備を主人公として魏呉蜀の三国間の争いを描いた漫画版三国志では、あまり活躍の場を与えにくいのでしょうね。

魏の視点で描かれた漫画「蒼天航路」では多少登場の機会もあるようですが。

それでは、陳羣の事績を史実から紐解いていきましょう。

魏の政治の中心で活躍した重臣

陳羣は、魏において大いに活躍した政治家であり、魏の中心において大きな権力を持った重臣です。

陳羣はもともと清流派の名家にもとに生まれ、祖父、父、叔父も名声が非常に高かったことが史実に記載されています。

当時の名士のネームバリューは絶対的であり、能力がなくとも名声さえあれば民を心服させることができるような時代です。

あの実力主義の曹操ですら、自分の名声をあげようと人物評で有名な橋玄に自身の評を求めたくらいですから、名家の出である陳羣は生まれながらにして価値のある人物だったのです。

しかも、陳羣は幼少のころから才能豊かだったようで、あの孔子の子孫として絶対的な名声を誇った孔融からその才を大いに認められ、これにより陳羣の名は世間に広く知れ渡ったのです。

世に出る前から勝ち組だったといえますね。

そんな陳羣は、曹操に従えるとその才能をいかんなく発揮し、昇進を繰り返します。

陳羣は戦にあたって軍略を張り巡らせる軍師的な立ち位置ではなく、朝廷の中枢において法律の制定や制度の組み立てを行う役目を担っていたので、ド派手な活躍をするわけではないものの、国の仕組み作りを担っていたわけですから、その影響力は絶大なものがありました。

特に、陳羣によって作られた九品官人法は随の時代に至るまで人材登用の基本制度となったほどで、陳羣は時代に左右されない絶対的な法律や制度を生み出すことが出来る人物だったのです。

ちなみに、朝廷の中枢で政治に携わっていた陳羣ですが、曹丕が呉を攻めた際には鎮軍大将軍・録尚書事に任命されて軍務にも携わっています。

これは、蜀でいうところの蔣琬や費禕と同じような地位ですね。

いかに陳羣が高位に位置していたかがわかります。

曹叡の代には、陳羣は三公の一つである司空にまで昇っており、曹休、曹真、司馬懿とともに開府を許可されるという高待遇を受けております。

曹一族の筆頭として活躍した曹休・曹真や魏の要である司馬懿と並んで開府を許されているあたり、陳羣が魏にとって如何に重要な人物であったか窺い知ることができますね。

このように、陳羣という人物は、人材豊富な魏のおいても5本の指に入るほど高位にのぼり、その名声や能力を大いに活かして活躍したのです。

スポンサーリンク

もしも陳羣が劉備のもとにとどまっていたら…

陳羣を語る上で外せないのが、陳羣と劉備の関係です。

実は陳羣は、劉備に登用されて史実に登場するのです。

つまり、もともとは劉備の部下としてキャリアをスタートされるわけですね。

しかも、劉備が刺史だったころに、州吏の筆頭である別駕に任命されており、劉備のもとで高位を与えられ、劉備に非常に近い位置にいたことになるんですよ。

それではなぜ、陳羣は劉備のもとを去って曹操の部下となったのでしょうか?

その理由は、劉備が陳羣の意見を聞き入れずに、徐州を領有しようとして袁術と争っていた際に、呂布の横やりで劉備が領地を失ってしまったからです。

陶謙がなくなった直後、徐州は混乱の最中にあって安定しておらず、陳羣は「袁術や呂布が徐州を狙っているのに、混乱している徐州を今領有するのは危険だ」と劉備に忠告したのに、劉備がそれを聞き入れなかったんです。

結果的に、陳羣の忠告どおり劉備は徐州を領有出来なかったばかりか、呂布の攻撃で自分の領地を失って逃走せざるをえなくなり、残された陳羣は呂布のもとで県令に任命されることになります。

これによって、曹操が呂布を滅ぼしたときに陳羣が曹操幕下に加わることになるのです。

もしも、劉備が陳羣の忠告を聞いて徐州の領有を諦めていたら、劉備はもっと早く自身の領地を拡大していたかもしれないし、何よりも陳羣を失うことはなかったでしょう。

蜀よりもはるかに国力の大きな魏において司空にまで至るほどの陳羣を失ったわけですから、非常に勿体ないですよね。

陳羣がなくなるのは236年ですから、もしも蜀で陳羣が活躍していたら、諸葛亮とともに蜀の政務の中心的人部として活躍していたかもしれません。

たらればの話になりますが、「もしも陳羣が劉備配下のままだったら…」と妄想してみるのも楽しいですね。