呉懿は蜀の武将であり、益州を平定した劉備の配下に加わった人物です。
もとは、益州の劉璋に仕えていた呉懿ですが、劉備の益州侵攻を防ぎ切ることができずに、劉璋の降伏とともに自身も劉備の配下に加わり、劉備なきあと諸葛亮に従って活躍しました。
漫画版三国志では、諸葛亮の北伐における一武将として度々登場し、諸葛亮に従って武功を上げる姿が描かれているため、漫画読者であれば名前くらいは覚えているのではないかと思います。
そんな漫画では北伐の一武将に過ぎない呉懿ですが、史実ではどのような人物なのでしょうか?
詳細にみていきましよう。
劉備の親戚として大きな力を持った武将
漫画では単なる二線級の武将といった扱いの呉懿ですが、史実では、劉備の親戚として大きな力をもった人物なのです。
劉備が益州を平定して間もなく、呉懿の妹が劉備に嫁ぎ、穆皇后となりました。
これにより、呉懿は劉備の親戚となり、蜀において絶大な力を手に入れたわけです。
なお、呉懿は劉璋に仕えていた頃、中郎将の役職についており、中郎将といえば宮殿を守る衛兵の指揮官というエリート職であるため、劉備の親戚になる前にもそれなりに優秀な人物と目されていたのかもしれませんね。
ただし、呉懿の父親と劉璋の父親である劉焉は旧交があったと史実に記されていますので、その関係もあって呉懿は中郎将になれたのかもしれません。
そんな呉懿ですが、諸葛亮がなくなった後、234年の車騎将軍に任命され、漢中の防備にあたっています。
車騎将軍といえば、大将軍、驃騎将軍に次ぐ位の高い将軍職であり、劉備の親戚という強力な立場を利用して大きな権力を握ったのであろうことがよくわかりますね。
呉懿の功績はよくわからない
劉備の親戚という強力なバックボーンがあるとはいえ、車騎将軍ほどの高い位に昇った訳ですから、呉懿自身優秀な人物だった推測されます。
なぜ推測の域を出ないのかと言うと、史実に呉懿に関する記載がほとんどないからです。
呉懿は、車騎将軍という高い位についており、尚且つ皇帝の外戚という立場でありながら、個人の伝が立てられていません。
そのため、呉懿がどんな功績を立てたのかほとんどわからず、「街亭の戦いの際に諸将が呉懿を推挙したのに諸葛亮が馬謖を用いた」という記載や「諸葛亮の死後呉懿が漢中を守っていた際は、王平が副将として呉懿を支えた」という記載が史実にあるのみです。
これだけ見ると、「呉懿に大した力がないから諸葛亮は馬謖を用いたのではないか」とか、「王平という優秀な将がいなければ呉懿一人で漢中を守りきることは出来ないと思われていたのではないか」というように推察されてしまうため、何だかた頼りない印象を受けてしまいます。
しかし、これはひとえに、蜀が歴史を記す官職を置かなかったことが原因でしょう。
蜀に関しては、趙雲や黄忠といったレベルの武将でも、ほとんど史実に記載がなく、実際にどのような功績があったのか定かではありません。
呉懿もその例に漏れず、ほとんど功績が記載されなかったため、このような事態が起こってしまったのだと思われます。
季漢輔臣賛においては、「呉懿は非常に剛毅な人物で博愛の心を持ち合わせており、弱軍を率いても強軍を制圧して危機に陥ることがなかった」と賞賛されているので、決して呉懿は一廉の武将ではなかったと思うのですが、その事績が歴史の闇に葬りさられてしまったのは残念です。
蜀の武将は推察の余地が残る点で面白い
魏や呉の武将は、蜀の劉備を主人公とする漫画においてはあまり具体的に描かれることがないのですが、史実を紐解いていくと具体的な戦歴や性格などをうかがい知ることが出来て、とても興味深いです。
その一方、蜀の武将は、漫画では縦横無尽の活躍をみせ、具体的な性格がストーリー性をもって描かれていますが、史実を読むとその記載があまりにも簡素で拍子抜けしてしまいます。
ですが、僕はそんな蜀の武将こそ、史実を読む楽しみがあるなと思っています。
あまりにも記載が簡素で、何をした人物なのか全くわからないので、推察の余地が残っていて、「あのとき呉懿はこんな活躍をしていたのではないか」「実は呉懿は劉備の外戚としての地位を諸葛亮に警戒された活躍の場を与えられなかったのではないか」といったように、自由に妄想することができるからです。