潘濬は呉の政治家であり、孫権の代から孫呉の臣下に加わった人物です。
漫画版三国志では、潘濬の名前は特に出てこないので、漫画読者からすると「潘濬?誰それ?」といったところでしょうか。
ところがこの潘濬、史実ではとても面白い略歴を辿っているのです。
それでは、潘濬という政治家がどのような人物だったのか、史実を紐解いていきましょう。
劉備から孫権のもとに降った降将だけど他とは一味違う潘濬
潘濬は、劉備が荊州を統治していた頃に劉備の配下に加わり、劉備が益州に侵攻する頃には荊州の事務を全て任されるまでに至りました。
つまり、史実における潘濬は、もともと劉備のもとで働いており、しかも一州の事務を統括するという大きな役割を担っていたわけです。
潘濬に対する劉備からの信任は非常に厚く、後の孫権からの厚遇も考慮すると、潘濬は蜀・呉のトップ2人から評価された事実が史実として残っている稀有な人物なのです。
そんな潘濬ですが、荊州を任されていた関羽が呉の呂蒙に敗れ、荊州が孫権に占領された際に、孫権のもとに降りました。
そのため、呉・蜀の荊州争奪戦において呉に寝返った糜芳や士仁といった武将と同様の扱いを受けることが多いのですが、潘濬はそこら辺の降将とは一味違います。
荊州が孫権に占領された後、荊州にいた劉備配下の武将たちが一様に孫権に降伏するなかで、潘濬だけは孫権からの出頭命令を拒否して自宅にこもりました。
孫権は、潘濬を寝台にくくりつけて連行させ、孫権から直接説得された潘濬はようやく孫権に帰順したのです。
荊州が呉に奪取されたことは、潘濬に何の責任もなく、出頭すれば赦されて孫権の配下に加わることも可能だったのに、劉備への忠誠心を忘れず出頭を拒み続けた潘濬は、日和見主義な降将たちに比べると立派な人格者だと思いますね。
潘濬は、劉備配下として荊州の事務の統括という大役を担っていましたが、後述するように呉においてもその能力を遺憾なく発揮し、降将でありながら呉の人物から認められる存在となりました。
史実を読んでいると、劉備から孫権や曹操のもとに移った人物が何人かいるのですが、その中でも田豫、陳羣、潘濬は、それぞれ孫権や曹操のもとで大きな功績を挙げて確固たる地位を築き上げたため、「田豫、陳羣、潘濬が劉備のもとに残っていれば蜀の人材難も少しは解消されたのになぁ」なんて思ってしまいます。
降将でありながら孫権の絶大な信頼を得た人格者
潘濬は、降将でありながらも、法を重んじる信賞必罰の態度で軍務・政務にあたり、孫権からの信頼を勝ち得て呉で躍進しました。
孫権からの信頼は相当なもので、蜀の蔣琬が大将軍になった頃、蔣琬と親戚関係にあった潘濬が蜀と内通するのではないかと周りが疑って孫権に忠告する人物まで現れましたが、孫権は全く意に介さず、潘濬をますます厚遇して逆に忠告した人物を免職にしています。
蜀の降将であり、しかも蜀の最高位の蔣琬の親戚であるにも関わらず、孫権から絶大な信頼を受けた潘濬は、人格的にも能力的にも群を抜いていたことは間違いありません。
史実では、孫権の寵愛を受けて多くの重臣を罪に陥れた悪臣呂壱が呉の最高職である丞相の顧雍までも排除しようと試みていたときに、顧雍を排除しても潘濬が後任になるであろうことを知った呂壱は、法に厳格な潘濬によって処罰されるのを恐れて、顧雍を排除せずに無罪放免としたエピソードが記載されています。
この記載から推察するに、潘濬は、蜀からの降将でありながら、呉の最高位である丞相にまで登りつめられる可能性があった人物ということになり、潘濬がどれほど優秀な人物だったかうかがいしることができますね。
呉を大混乱に陥れた悪臣呂壱が処された翌年の239年、潘濬はなくなります。
荊州で劉備に見初められて将来を期待されていた頃は、呉という馴染みのない土地において生涯を全うするなんて、潘濬自身思いもしなかったのではないでしょうか。
歴史の影に隠れた実力者はたくさんいる
三国志を読んでいると、漫画には出てきていないだけで、史実で大いに活躍した実力者は本当にたくさんいます。
そんな歴史の影に隠れた実力者の存在を知ることが出来るという点で、史実を読む価値は大いにありますね。