ゆるさんの自己紹介

蜀の龐統士元!罷業の最後を遂げた龐統の目的は何だったのか?

龐統は、蜀に従えた武将・政治家であり、「伏龍」と称された諸葛亮と並び評される形で「鳳雛」と称された人物です。

漫画版の三国志では、龐統は主に劉備の益州攻略において活躍し、劉備に同伴して成都まであと一歩のところまで迫るも、敵の矢に倒れて罷業の最後を遂げます。

龐統の死によって、諸葛亮が荊州から劉備のもとに馳せ参じることになり、荊州を関羽に任せるしかなくなったため、呉の計略で荊州を奪われたことを考えると、龐統の死は蜀にとって大打撃だったと言わざるを得ないでしょう。

漫画版三国志の読者間でも、「龐統さえ生きていればなぁ」なんて話題で盛り上がること間違いなしです。

それでは、史実の龐統はどんな人物だったのでしょうか?

龐統がなぜ劉備に従えたのかははっきりわからない

諸葛亮と並び評される龐統ですから、いかにも劉備を慕って彼のもとに身を寄せたのかと思いがちですが、実は史実において龐統がいつどのようにして劉備に従えたのか明らかになっていません。

それどころか、史実を紐解いていくと、龐統はもともと呉寄りの人物なのです。

具体的に、史実において、龐統は周瑜が亡くなった際に亡骸を送り届ける役目を担った人物として登場します。

つまり、龐統はもともと、周瑜の下で働いており、呉の臣下だったわけですね。

また、龐統は、呉の重臣である陸績・全琮・顧邵らと仲がよく、周瑜の亡骸を送り届けた際に彼らと再開したときには「天下が太平になったらまた一緒に四海の士を批評しよう」と語り合っているのです。

この時点では、史実における龐統は呉にどっぷり浸かっている状態なのです。

ところが、そんな龐統はその後劉備のもとに転じ、劉備から県令の職を与えられます。

なぜ急に劉備のもとに転じたのか、史実には全くその理由が記載されていないのです。

しかも、龐統が県令として仕事をしていた頃、孫権軍の魯粛から劉備のもとへ「龐統は県令程度に収まる人物ではなく大役を任せてこその人物です」という内容の手紙が送られています。

この事実から察すると、龐統は、孫呉との関係を継続したまま劉備のもとに転じたとも考えられ、とにかく謎が多いのです。

巷では、「龐統は孫呉のスパイとして劉備に転じたのではないか」「劉備の目付役として孫呉が龐統を劉備につけたのではないか」といった憶測が出回っていますが、真実は闇の中です。

龐統ほどの人物ですから、もしかしたらそのような事実もあるかもしれませんね。

スポンサーリンク

劉備に益州をとることを決意させた意図は?

劉備はもともと、同族である劉璋が収める益州に理由なく攻め込むことを躊躇しており、益州取りに積極的ではありませんでした。

そんな中、劉備に益州取りを決断させたのは、誰であろう龐統なのです。

そして、劉備に益州取りを決断させた後、成都までの道筋で戦術を立てて劉備軍を勝利に導いたのも龐統です。

龐統は、どのような目的で劉備に益州を取らせようとしたのでしょうか。

もちろん、劉備が覇業を成し遂げるために、曹操や孫権に対抗出来る国力を養うべく南方の益州をとるべきだと考えて、素直な気持ちで劉備に益州取りを進言したのかもしれません。

諸葛亮の天下三分の計でも、益州と荊州をとって曹操、孫権に対抗するという献策がなされていますので、諸葛亮であっても劉備に益州取りは進めるでしょう。

その一方で、龐統が孫呉とつながっていたと仮定すると、孫呉の駒として劉備に益州へ侵攻させ、孫呉が荊州、益州へと侵攻するための足がかりとしたのではないかと憶測することもできます。

いずれにしても、龐統は益州取りの一歩手前で悲運にもなくなってしまうので、真相は闇の中ですね。

優秀な人物だからこそ裏を疑ってしまう

史実を読めば読むほど、龐統の行動には不可思議な点も多く、どうしても何か裏があったのではないかと疑ってしまいます。

これもひとえに、龐統という人物が非常に優秀だからでしょう。

優秀の人物だからこそ、「龐統であればきっとこのとき〇〇を考えていたに違いない」と憶測してしまうのです。

事実はどうあれ、こうやって憶測で三国志を楽しむことが出来るのも、龐統のような優秀な人物ならではだと思いますね。