顧雍は呉の政治家であり、長きに亘って丞相職を務めた人物です。
もともと呉群呉件の出身であり、孫権の代から孫家に従えた顧雍は、孫策や孫堅の代から孫家に従えた家臣たちを差し置いて、皇帝である孫権の次に地位の高い丞相に任命されており、呉における政治の中心を担いました。
そんな顧雍ですが、漫画版の三国志では名前さら出ていなかったので、全く知らないという人も多いのではないでしょうか?
いくら蜀を中心としてストーリーが描かれているとはいえ、蜀における諸葛亮と同様のポジションを担う顧雍が全く漫画に出てこないというのは、少し悲しい気がしますね。
今回は、そんな顧雍について史実に基づいて語っていきたいと思います。
呉の老臣張昭を差し置いて丞相に任命された理由は?
史実において、呉の初代丞相である孫邵がなくなったとき、ほとんどの臣下が次の丞相に老臣張昭を推薦したものの、孫権は顧雍を丞相に任命したと記されています。
このとき、顧雍の職は尚書令でした。
尚書令は、簡単に言うと国の事務を統括する長官職のようなものです。
蜀においては、丞相である諸葛亮が亡くなった後、蔣琬や費禕といった人物が尚書令の職につき、丞相職は不在のまま彼らが諸葛亮の後を継ぎました。
つまり、尚書令とは、丞相に限りなく近い位の高い役職であり、呉における尚書令の顧雍が丞相職に任命されることは、決して不自然ではないわけですね。
そもそも、顧雍自身が優秀だったからこそ、尚書令という職にまで上り詰めたわけですから。
とはいえ、呉の臣下のほとんどが張昭を丞相に推していた中で、孫権が独断で顧雍を丞相に任命したわけですから、臣下の皆が驚いたことでしょう。
孫権が顧雍を丞相に任命したのは、「顧雍が優秀だから」というのはもちろんですが、それ以上に「張昭に対する反発心から」というのが本心ではないかと思います。
張昭は孫策の代に政治や軍事の一切を任されていた老臣であり、孫策が呉の礎を築くことが出来たのは張昭の功労も非常に大きかったため、孫権は張昭に頭が上がらなかったことでしょう。
そんな中、張昭は孫策に孫権を託されたという責任感からか、孫権に対して厳しく讒言を行い、孫権の行動を逐一正してきました。
孫権からすれば、自分が国のトップであるのに、張昭によって自分の行動が制御される現状に不満を抱いており、このまま張昭を丞相に任命してしまうとますます張昭に束縛されてしまうと考えても不思議ではありません。
そんな理由もあってか、孫権は「張昭は剛直な性格で感情的な行き違いが起こりやすいので、丞相職とするのは彼のためにならないであろう」と述べて、顧雍を丞相に任命しました。
丞相として十数年堅実に仕事をこなす優秀な顧雍
そんな棚ぼた的に丞相職を得た顧雍ではありましが、彼自身もともと優秀だったので、丞相としての仕事を堅実にこなしていきます。
史実によれば、顧雍は感情に左右されることなく、公平な人事を行い、献策がうまくいったときは全て孫権の手柄とし、失敗したときは決して孫権のせいにならないように気を配りました。
その結果、孫権からは大いに信頼されたようで、孫権からすれば張昭を却下して顧雍を採用したかいがあったといったところでしょうか。
ただし、あまりにも実直で寡黙な顧雍は、酒席においても酒を飲まずに羽目を外さない性格だったので、孫権は「顧雍が同席すると酒がまずくなる」と愚痴を言っていたようです。
仕事上ではその実直な性格が認められても、プライベートではあまりに堅苦しく感じたのかもしれませんね。
実直な性格で孫権の信頼を得た顧雍は、史実に大きな功績を残したわけではないものの、国の最高位である丞相という職を自身がなくなるまで十数年にわたって務めあげたことを考えると、相当優秀な人材だったのでしょう。
蜀において絶対的な権力を握った諸葛亮でも、丞相在位期間は10年ほどですからね。
出過ぎない人間は目立たなくても認められる
顧雍のように、自分を律して出過ぎることなく仕事を実直にこなす人物は、目立たないので漫画のような華やかな物語には登場出来ないかもしれませんが、現実ではときに優秀過ぎる出過ぎた人間よりも評価されます。
張昭だって、君主と臣下という立場をもっとわきまえて、孫権を立てて自分が日陰に入るような臣下であれば、間違いなく呉の丞相として君臨することになったでしょう。
そう考えると、目立ちすぎず与えられた仕事は確実にこなすという人間こそ、実社会では認められるのかもしれませんね。