魯粛は、呉の武将・政治家であり、周瑜の推挙により孫権に仕官した人物です。
漫画版三国志における魯粛といえば、周瑜の下で動き回る連絡係や雑務係といった印象で、周瑜と諸葛亮との間でオロオロとしている凡庸な人物といったイメージがありますよね。
ところがこの魯粛、史実においてはとんでもなく優秀であり、尚且つとんでもなく豪胆な器量の持ち主なのです。
漫画版では、周瑜と同様に、諸葛亮の対比でかなり凡庸な人物として描かれていますが、実際のところは全く違うというのが魯粛の面白いところですね。
それでは、史実を具体的に紐解いていきましょう。
オロオロしている姿はどこえやら?!超豪胆な魯粛
史実においては、魯粛の豪胆な性格を表すエピソードが数多く記載されています。
例えば、魯粛がまだ呉の臣下に加わる前、周瑜が魯粛の地元の県長を勤めていた際、周瑜が魯粛のもとに挨拶に訪れて資金や食料の支援をお願いしたところ、魯粛は何も言わず自身の持っている2つの倉のうち1つを全て周瑜に与えました。
もともと、魯粛は裕福な豪族の生まれではあるのですが、それでも全財産の半分を県長に提供するなんて、普通じゃ考えられませんね。
結果的に、魯粛は周瑜からその豪胆ぶりを認められて、後々周瑜の推挙で孫権に従えることになるわけですから、惜しみなく倉を与えたことも1つの自己投資だったのかもしれません。
また、河北や荊州を収めた曹操軍がいよいよ呉に攻め入ろうという頃、呉においては日夜曹操に帰順するか対抗するか議論が繰り返されていました。
孫権陣営が降伏論に傾いていた頃、魯粛は孫権にこのようなことを言ったのです。
「私は名家の出であり、殿が曹操に降伏した後も曹操に士官してそれなりの地位を得ることが出来るでしょうが、殿の立場ではそうはいきません。反乱を疑われて除かれる危険性もあるでしょう。殿は降伏して曹操に除かれるか、抵抗して勝利を勝ち取るかどちらがいいのですか?」
魯粛は自分の主君に対して、「自分は大丈夫だけどあなたは危ないですよ!それでもいいんですか?」という、脅しのような一言を言い放ったわけです。
普通の臣下であれば、このようなことを主君に直接伝えるなんて大それたこと出来るはずもありません。
如何に魯粛が豪胆な人物だったかがわかりますね。
三国時代では想像もつかない超合理的な思考の持ち主
三国時代は、群雄割拠の時代であり、漢はもうその権力を失っているに近い状態ではあったものの、当時の価値観として、漢が消失するなんてことは考えもつかないことでした。
漢は、三国時代以前の約400年に亘って続いてきた王朝であり、歴史的情報が少ない当時において、そもそも王朝が滅びるなんてことは検討もつかないことだったわけです。
なので、三国時代に活躍した群雄たちも、そのほとんどが自身の勢力拡大のために活動していただけで、漢王朝にとって変わろうなんていう思考は皆無だったはずです。
ところが、魯粛は違いました。
魯粛は、孫権にはじめて面会したその場で「漢王室再興も曹操を除くこともともに不可能なので、あなたが自ら帝王になりなさい」と言い放ったのです。
当時の価値観から考えれば、とんでもない発言ですね。
そもそも、孫権自身もその時点では漢王朝から官を授かっている身ですから、このような発言を孫権に言い放つあたり、魯粛は超合理的な思考の持ち主だったと考えられます。
なお、このとき魯粛は、孫権に対して「北方の混乱に乗じて荊州に侵攻し、長江を北岸として帝王を名乗りなさい」と進言しています。
諸葛亮が劉備に対して天下三分の計を説くより遥か前に、魯粛は曹操と孫権で中国の中部と北部を二分する献策をしていたわけです。
末恐ろしい先見の明ですね。
なお、これらの魯粛の発言は、決して孫権に対するおべんちゃらで出たものではありません。
赤壁の戦いが終わって魯粛が帰還した際に、孫権が武将たちの前で魯粛に一礼して「私が下馬してあなたを迎えれば、あなたの功績を十分彰したことになるだろうか」と聞いたとき、魯粛は「それでは不十分です。あなたが天下統一して帝王となり、帝車で私を迎えてくれれば 十分彰したといえるでしょう」と言い放ったのです。
魯粛が本気で孫権を帝王に押し上げようとしていたのがよくわかるエピソードですね。
現代でも通用する魯粛の考え方と生き様
このように、史実における魯粛は、豪胆で器量の深い人物であり、慣習に流されず合理的に物事を考えることができる、戦略家として非常に優秀な人物だったのです。
魯粛は諸葛亮や周瑜に勝るとも劣らない人物なのです。
魯粛のような豪胆でありながらも合理的な考え方が出来る人は、現代社会においても成功を掴むことができる典型例だと僕は思います。
仕事の判断は素早く大胆にこなしつつ、「当たり前」に左右されずに客観的に世の中を見渡すことが出来るということは、起業家として重要な資質になるのではないでしょうか。