呂蒙は呉の武将であり、孫策の代に孫家に仕えた人物です。
漫画版三国志における呂蒙といえば、荊州を守る関羽と対峙して蜀から荊州を奪った武将として印象深いですね。
3国の中でも印象の薄い呉の中では、比較的有名な武将であり、漫画読者であれば「関羽を倒した憎むべき敵」といった感情をもっている人も多いのではないでしょうか。
ただ、蜀から荊州を奪った後、呂蒙はすぐになくなってしまうので、荊州攻防戦だけ活躍したよくわからない武将といったイメージを持っている人もいるかもしれません。
ただ、史実における呂蒙という武将は、とても魅力的であり、個人的にはとても大好きな人物です。
それでは、史実に基づいて呂蒙の略歴を見ていきましょう。
武勇を活かして武将としての人生をスタートさせた前半生の呂蒙
漫画では、関羽を倒した指揮官としての印象が強い呂蒙ですが、呂蒙の人生は武勇を活かして武将として活躍した時期と、知勇を活かして指揮官として活躍した時期の2つの時期があるのです。
そもそも、呂蒙が孫策に見初められて孫家の臣下に入ったのは、呂蒙が武勇の面において非凡な才能を持っていると見抜いたからです。
つまり、呂蒙は指揮能力で知略をかわれて召し抱えられた訳ではなく、その武勇を見込まれて登用されたのであり、孫策は後に呂蒙が指揮官として大きく花開くなんて思ってもいなかったでしょうね。
武将としての人生をスタートさせた呂蒙は、孫権の代になって様々な戦に参加し、武功をあげていきました。
特に、孫家の宿敵である黄祖との戦いにおいて、呂蒙は先鋒を勤めて敵水軍の都督を打ち取り、黄祖を捕虜にするきっかけをつくり、孫権からその功績を大いに評価されました。
漫画における関羽や張飛のような一線級の武将のように尋常じゃない武功をあげ続けていたわけではないですか、戦にあたって実直に仕事をこなす優秀な武将といった位置付けが前半期の呂蒙ですね。
知勇を身に付け指揮官としての才能を開花させた後半生の呂蒙
前半生は武勇一辺倒だった呂蒙ですが、あるとき、孫権から教養の大切さを諭されて勉強をはじめ、その結果儒学者にも勝るほどの学問を身に着けました。
そんな折、たまたま魯粛が呂蒙と対話する機会があったのですが、魯粛は武勇一辺倒だった呂蒙しか知らなかったため、その変貌ぶりに驚いた魯粛は「呉下の阿蒙にあらず」という言葉を残しました。
簡単に言うと、「呉にいたころの頭の弱い呂蒙ちゃんはもういないのだなぁ」といった意味ですね。
これに対して、呂蒙は「士別れて三日、即ち更に刮目して相対すべし」という超有名な言葉を残しました。
あの魯粛と対等に会話し、歴史に残る一言を残したあたり、呂蒙の知勇兼備っぷりがうかがいしれますね。
その後、知勇を活かした指揮官としての才能を爆発させた呂蒙は、軍略を用いて功績を挙げ続け、遂には魯粛から後継に指名されるまでに至りました。
言ってみれば、若い頃スポーツで功績を挙げた人が30代から勉強を始めて東大に合格するようなもので、実は呂蒙ってとんでもない稀有な人生を辿っているのです。
荊州奪取は呉の悲願であり蜀の弱体化を決定づけた
魯粛の光景として、対荊州の戦線における司令官となった呂蒙は、孫権の悲願を見事にかなえて、関羽を打ち破り、荊州を奪取しました。
荊州は、魯粛の前任であった周瑜も曹操と孫権で天下を二分するために必ず必要な要地であると考えていた土地であり、劉備にとっても対魏、対呉の足がかりとなる要所であったため、そんな重要な土地を奪った呂蒙がいかに指揮官として優秀だったかうかがい知ることができます。
呂蒙が荊州を奪ったことにより、蜀の天下どりはほぼ不可能な状況に追い込まれ、国力で圧倒的不利に立たされた蜀は、劉備なきあと休みなく北伐を行うしかなくなったのです。
そう考えると、呂蒙による荊州奪取は、三国の運命を決定づけたと言えます。