劉封は、蜀の初代皇帝劉備の養子であり、蜀の二代目皇帝劉禅の兄に相当する人物です。
劉封は、長沙の寇氏の子で、劉禅が生まれる前に、荊州の劉表に身を寄せていた劉備が養子として迎えたため、その時点では劉備の世継ぎ候補でした。
漫画版三国志では、劉封は関羽や張飛のような勇将には遠く及ばないものの武将不足の劉備軍においてある程度活躍し、各地を転戦する劉備軍のもとで軍務を遂行した姿が描かれています。
晩年は、関羽に援軍を送らなかったことから劉備の怒りを買って処されるという悲運の最後を遂げてしまうため、漫画版三国志の読者であれば、「劉備に従って頑張ってきたのに可哀想な人だな…」なんて思ったのではないでしょうか。
漫画では、劉封を処した後、劉備が後悔するような描写もありましたので、読者としてはなんだかやり切れない気持ちもあります。
今回は、そんな劉封を史実から紐解いていきたいとおもいます。
具体的な活躍はほとんどない
漫画を読んでいると、一線級の武将には及ばないものの、二線級の武将として劉備軍を大いに支えた武将といったイメージがある劉封ですが、史実を参照しても劉封が戦地で活躍したという記載はほとんどありません。
といっても、「劉備が益州を攻略する際に、武芸・気力ともに人よりも優れたていた劉封を取り立てて、劉封自身は諸葛亮らとともに益州攻略戦に参加して武功を上げた」というような記載が史実に残っているので、決して凡庸な人物ではなかったのでしょう。
大きな活躍こそないものの、劉備の養子という立場で、実直に軍務をこなしていたことがうかがい知れます。
劉禅が生まれて難しい立場に
劉封の大きな転換期は、劉禅が生まれた207年ではないでしょうか。
それまで、劉備には実子がいなかったため、養子である劉封が跡継ぎ候補だったわけですが、劉禅が生まれたことによって一気に跡継ぎの座を奪われます。
劉封の方が劉禅よりも遥かに年上なのですが、当時の慣習では実子に跡目を継がせるのが一般的であり、この時点で劉封の運命は決まったといっても過言ではありません。
今は劉備の養子としてそれ相応の待遇を受けていますが、劉禅が劉備の跡目を継げば、劉封の存在は劉禅にとって邪魔な存在になり得ることは確実であり、後々災いが降りかかる可能性が多いにあることを、劉封も予感していたのではないでしょうか。
そんな難しい立場に立たされた劉封ですが、自身の危機を乗り越える処世術は持ち合わせていませんでした。
樊城で曹仁に包囲された関羽から援軍の要請を受けていた劉封は、自身が占領したばかりの上庸がまだ動揺していることを理由に援軍を断り、結果として関羽が大敗する一因を担ってしまいます。
また、孟達は魏に出奔したり、申儀は反乱を起こしたりと、問題が続き、結局上庸も失って成都へ敗走することになりました。
その結果、劉備の怒りを買った劉封は、父である劉備の命令で処されてしまい、罷業の最後を遂げるのです。
自分の立場が危ういものであることはおそらく分かっていたのに、自分自身を守りきる術を知らなかったという点では、そこまで優秀な人物とは言えないかもしれませんね。
自分ならどうするかを深く考えさせられる人物
劉封をみていると、「自分ならどうしただろう」「自分の身を守りきれただろうか」といつも考えてしまいます。
史実を読んだあとから、劉封が自分を守りきれなかった点で優秀ではなかったということはいくらでも言えますが、じゃあ自分なら劉封の危機を回避できたかというと疑問が残りますね。
現代社会においても、自分の意に反して窮地に追い込まれることがありますが、そんな状況においても冷静に自分の立場を客観視し、窮地を脱することができる人ほど優秀なんだろうなと考えさせられます。