蔣琬は蜀の政治家であり、諸葛亮に後事を託された人物です。
漫画版三国志は、劉備の旗揚げから諸葛亮がなくなるまでのストーリーを描いているため、諸葛亮なきあとに活躍した蔣琬はほぼ出てきません。
なので、漫画しか読んだことがない読者からすると、「蔣琬?誰それ??」といったところかもしれませんね。
しかしながら、あの諸葛亮から後継者として指名されるほどの人物ですから、よほどの才能の持ち主だったことは間違いありません。
それでは、史実から蔣琬の事績を紐解いていきましょう。
諸葛亮のお気に入り?北伐の後方で蜀を任された逸材蔣琬
史実における蔣琬は、諸葛亮がなくなる以前から登場するのですが、具体的な功績は特に記載されていません。
ただ、諸葛亮が丞相府を開府した際に参軍に任命されているため、諸葛亮の信頼厚い人物だったのでしょう。
参軍という職は、開府を認められた者が自身の直属の部下として任命する職であり、要は諸葛亮に頼りにされている人物や信頼されている人物が丞相府の参軍になれるわけです。
そんな諸葛亮の信任厚い蔣琬は、227年に第一次北伐が開始されると、北伐の司令官として北方へ軍を進める諸葛亮に変わって、蜀の首都である成都に残って張裔という人物とともに軍事政務の一切を預かります。
この頃、張裔は60歳になる老臣であり、既に優秀な人物であることは誰もが知るところであった一方で、諸葛亮の参軍の一人にすぎず、正確な年齢は分からないもののまだ若かったであろう蔣琬が、張裔と並んで蜀の軍事政務の一切を預かったということは、蔣琬がいかに優秀で諸葛亮から期待されていたかよくわかります。
230年に張裔がなくなると、その後任として長史に任命されており、諸葛亮も密かに「私に何かあれば後事は蔣琬に託すべき」と上奏していたので、このあたりから蔣琬が諸葛亮なきあとの蜀の中心人物になることは確定していたようなものですね。
意外や意外、諸葛亮なき後も北伐の構想を持っていた
諸葛亮なきあと、蔣琬は尚書令となって諸葛亮の後を引き継ぎ、すぐに大将軍・録尚書事に昇進しました。
丞相の地位が空席のままとなっているのは、諸葛亮への配慮でしょう。
そして、239年には大司馬にまで至り、国の一切の判断を蔣琬が担うことになります。
ところで、諸葛亮なきあと、蜀では北伐に対して否定的な声が上がるようになり、一時期魏に対する軍事行動が見送られていました。
「あの丞相ですらなし得なかったのだから…」というムードが蔓延していたのでしょうね。
漫画版三国志のもとになっている「三国志演義」では、姜維が北伐を復活させて毎年のように出兵を繰り返すことに対して、諸葛亮の子どもである諸葛瞻を含む中枢の政治家たちが批判の声をあげ、姜維が蜀の中枢から孤立していく様子が描かれています。
このあたりのエピソードは史実にも記載がありますね。
ただ、史実では全ての政治家が北伐を非難していたわけではないのです。
実は、国の最高権力者である蔣琬は、北伐の構想を持っていて、諸葛亮なきあとも魏に攻め入ろうとしていたことが史実に残っています。
諸葛亮が山岳ルートから魏に攻め入った結果、うまくいかなかったので、蔣琬は船で長江を遡って魏へと攻め入る構想を持っていたようで、実際に船の準備もしていたのです。
諸葛亮なきあとしばらく北伐が行われなかったのは、準備に時間がかかっているうちに蔣琬自身が病に倒れることになり、構想を実現する間もなく蔣琬がなくなってしまったからなんですね。
もしも蔣琬が健康体のままもう少し在命していたならば、川を渡っての北伐が行われていたのかもしれません。
ちょっと見てみたかったですね。
絶対的権力者でありながら高潔な人物像で周りから愛される
蔣琬は諸葛亮なきあとの蜀の軍事政務の一切を取り仕切る絶対的権力者ですから、権力を振りかざして独裁的な体制を敷くことだって可能だったでしょう。
ですが蔣琬は、非常に高潔な人物で、絶対的な権力を手中におさめてからも、身をわきまえて行動していたようです。
たとえば、楊儀と蔣琬が議論となった際に蔣琬が楊儀の発言に対して返事をしなかったことがあり、この態度に疑問を感じた周りの人からその意味を聞かれると「私の意見を肯定すれば彼の意見と合わず、否定すれば公に私を批判することになってしまうから返事をしないのだ」と答えたエピソードが史実に残っています。
相手にことを想って自分の言動を決める高潔な蔣琬らしいエピソードですね。
また、楊敏という人物が「蔣琬は前任者の諸葛亮に遠く及ばない」と批判的な意見を述べた際に、蔣琬はそれを認めて楊敏を恨むようなことはなく、後に楊敏が別件で逮捕されたときにも個人的な感情で楊敏を処するようなことはしませんでした。
このように、蔣琬は私情で物事を判断することがなく、高位に昇っても周りの人に対して気を使える人物だったのです。
見習いたいものですね。