朱然は呉の武将であり、孫堅の代から孫家に従えた朱治の息子です。
漫画版三国志の読者の方は、朱然という名前を聞いてもピンとこないかもしれませんが、「関羽の息子の関興が関羽の敵討ちとして切り捨てた呉の武将」と言えば何となく覚えているのではないでしょうか。
漫画においては、たまたま関羽を捕縛したばっかりに関興の敵役となってしまい、特に活躍の場も与えられないまま切り捨てられたため、朱然に対する印象は薄く、単なるやられ役といったイメージしかないと思いますね。
それでは、史実における朱然はどのような人物だったのでしょうか?
具体的に見ていきましょう。
孫権とともに学び、孫権の寵愛を受けた孫呉の中心的人物
朱然を語るのは、まず先に朱然の父である朱治に触れた方がいいでしょう。
朱治は、孫堅の配下に入ってから、3代にわたって孫家に従えた忠臣です。
朱治は孫策を補佐して彼の覇業を大いに支え、曲阿にいた劉繇が孫策の動向を見て自分が攻撃されると考え、孫策と反目するようになったときには、朱治は曲阿にいた孫策の家族を迎えにやらせて保護したため、孫家から絶大な信頼を得ることとなりました。
孫堅の代からの忠臣であり、孫家の命の恩人な訳ですから、孫家にとってどれほど大きな存在かうかがいしることができますね。
そんな朱治の息子である朱然は、若い頃に孫権とともに学問を学びました。
孫家から絶大な信頼を得ている朱治の息子であり、孫権とも若い頃から親しい仲であった朱然ですが、驕り高ぶることなく真っ当に育ち、徐々に頭角をあらわしていきます。
30歳になる頃には、出世街道の登竜門的役職である偏将軍に任命されており、若くして非常に期待された存在だったのでしょう。
また、呂蒙がなくなる間際朱然を後継者として推したり、夷陵の戦いでは陸遜とともに対蜀の防衛司令官を果たしたりと、30代中盤から後半にかけて、呉の軍事の中心的役割を担っていくのです。
漫画では夷陵の戦いで関興に切られる単なるやられ役の一武将といったイメージですが、史実を紐解いていみると、陸遜と肩を並べて夷陵の戦いの呉軍を指揮していたわけですから、漫画読者の方は朱然のイメージが大きく変わったと思います。
実は関興に切られていない?!夷陵の戦い後ますます活躍した重鎮朱然
漫画版三国志では、朱然は関興に切り捨てられ、関興は見事に父親である関羽の仇討ちを果たしたわけですが、史実は全く異なります。
そもそも、朱然は夷陵の戦いでなくなっていないのです。
漫画版三国志は、蜀を正義としてストーリーが進行していくため、蜀の武将に活躍の場を与えるように多くの脚色が加えられており、関興が父親の仇討ちを果たしたという物語も、漫画だけの脚色なのですね。
夷陵の戦いは、222年の出来事ですが、その夷陵の戦いにおいて陸遜と協力して蜀軍を大いに打ち負かした朱然は、その後も呉の中心人物として活躍し続け、249年に病気でなくなるまで生きながらえます。
その間、229年には車騎将軍に昇進、246年には左大司馬に任命されている。
車騎将軍といえば、大将軍、驃騎将軍に次いで位の高い将軍職であり、大司馬といえば、国の軍事を司る国防長官的な役割の蜀であるため、朱然が呉においていかに大きな権力を持っていたかがわかりますね。
夷陵の戦い後もますます活躍した朱然は、大きな功績をあげて重要な役職につき、孫権も彼をますます厚遇するようになりました。
なくなる間際には、2年もの長きにわたって病床に伏することになる朱然ですが、史実では孫権が朱然の回復のために尽力したことが記載されており、その心遣いは呂蒙や凌統が病床に伏していた頃と同様であったとのことなので、朱然に対する孫権の信頼度は相当なものだったのでしょう。
上辺だけで人を判断してはいけない
朱然のように、史実では圧倒的な実績と地位を持っていて大きな活躍をした人格者であっても、漫画では蜀の敵役として軽くあしらわれてしまっている人物は、三国志の世界にたくさんいます。
このような事実は、ただ漫画を読んでいるだけではわからないことなのです。
上辺だけで「この人はこういう性格なんだ」、「この人はこの程度の実力なんだ」と判断していたら、実はすごい人だったなんてことは現実社会でも起こりうることであり、朱然を見ていると人を上辺だけで判断してはいけないなと思いますね。