太史慈は呉の武将であり、丹陽太守を自称していたものの孫策に敗れて敗走し、捉えられて降伏した人物です。
孫策に降伏した後は、孫呉の武将として孫策・孫権の代にわたって活躍しました。
孫策と太史慈との関係を語るエピソードは、漫画において具体的に語られており、「劉繇配下の太史慈が、劉繇の敗走に伴って丹陽太守を自称し、孫策に対抗したものの敗れて捉えられ、孫策に説得されて孫策軍に加わる」という一連の流れは、かなりのページを割いて漫画に描かれているので、誰もが知っていると思います。
漫画の読者なら、太史慈といえば「孫策と一騎討ちした武将だ!」「呉の中でも強い武将でしょ?」といったイメージを持っているのではないでしょうか?
それでは、史実に基づいて太史慈という武将を紐解いていきましょう。
単なる臣下の武将に留まる気がない群雄気質
太史慈といえば、孫策の敵として登場し、その後孫策に心服して孫呉のために活動した「呉の武将の一人」といったイメージが強いと思うのですが、太史慈はあくまで孫策とならぶ群雄の一人という扱いで、彼自身も一介の武将ではなく自身の覇業を遂げたいと野心を燃やしていたものと考えられます。
漫画しかしらない読者からすると、すごく意外ですよね。
大前提として、呉書における太史慈伝は、呉の武将たちと並んで収録されておらず、劉繇、太史慈、士燮という並びで「孫家と呉の支配権を争った群雄たち」という位置付けで収録されているのです。
つまり、太史慈はあくまで群雄の一人であって、劉繇や士燮とは違ってたまたま孫家の配下に入ったという扱いなのです。
そもそも、太史慈は赤壁の戦い以前になくなっているため、孫呉の建国には対して関わっておらず、孫呉の武将としての活動よりも群雄として孫策と争った活動の方が遥かに重要度が高いのです。
また、史実では、太史慈はもともと劉繇の部下として登場しますが、劉繇が敗走したあと自ら丹陽太守と名乗って孫策に対抗しています。
これは、あくまで自分自身が群雄として覇権を争うという姿勢に他なりません。
事実、太史慈は、なくなる直前に「 男としてこの世に生まれたからには、七尺の剣を帯びて天子の階を登るべきところを、その志が実現できないままなくなる事になるとは残念だ」と語ったとされています。
孫権の臣下という立場でありながら、自分が皇帝になりたかったと言ってるわけですから、最後まで群雄の一員として覇業を遂げたい気持ちが強かったのでしょう。
このように、太史慈という人物は、単なる孫呉の武将の一人ではなく、劉備、曹操、孫権といった群雄の一人として活躍した人物なわけです。
劉備が自身の覇業を遂げるために曹操、劉表、陶謙といった人物のもとを渡り歩き、彼らの配下扱いを受けて雌伏のときを過ごしていたように、太史慈も自身の覇業のために孫策に一時的に帰順しただけなのかもしれません。
そう考えと、志半ばでなくなってしまうことは太史慈にとってとても無念だったでしょうね。
誰かに笑われても高い志を持つことは大切
そうはいっても、太史慈は劉繇の一武将に過ぎず、群雄の一人として活動した期間も丹陽太守を自称して孫策に敗れるまでの短い間であるため、厳しい言い方をすれば「口だけ立派でその実が伴っていない」と言うこともできます。
だけど、太史慈のように、高い志をもって生きることは、現代社会においてもとても大事なことだと思います。
誰かに笑われるような夢であっても、今はどう頑張っても実現不可能な夢であっても、諦めたらそこで夢は潰えてしまうわけで、高い志をもって毎日生きているといつかは夢の実現にたどり着くかもしれませんよね。
そんな気概をもって、日々過ごすことができれば、人生を後悔することなく一生を終えることが出来るのではないかと思います。