鄧芝は蜀の武将であり、劉備が益州を平定した際に劉備の臣下に加わった人物です。
漫画版三国志では、劉備がなくなって間もなく、呉蜀同盟を結ぶ使者として呉に赴く大任を諸葛亮に任された鄧芝が、見事に同盟を結ぶことに成功したエピソードが描かれています。
ただ、諸葛亮がその才能を見初めて呉への使者という大役を任せたほどの人物ですから、それ以降も大いに活躍するのだろうと期待していたら、その後登場の機会はほぼなく、漫画読者であれば拍子抜けしたのではないかと思います。
それでは、史実における鄧芝はどんな人物だったのでしょうか?
具体的に紐解いていきましょう。
蜀後期の重臣としてその名を残した鄧芝
漫画版三国志では、呉への使者としての大任を果たして以降、特に登場の機会もない一発屋のような扱いを受ける鄧芝ですが、史実における鄧芝は、呉蜀の同盟を結んだ後も蜀において大いに活躍し、重臣としてその名を残した非常に優秀な人物だったのです。
史実では、鄧芝は若い頃に、人相を見ることに長けていた張裕という人物に「70歳を過ぎてから大将軍となり候に封ぜられる」という予言をされています。
そして、実際に70歳を過ぎた鄧芝は、車騎将軍にまで昇進したのです。
車騎将軍とは、大将軍、驃騎将軍についで位の高い将軍職であり、鄧芝は蜀における軍事の3番手の地位に至ったわけですね。
当時の大将軍は、諸葛亮の後任である蔣琬の後を継いだ絶対的権力者である費禕でした。
また、当時の驃騎将軍は、記録に残っていないので誰だったかは定かではありませんが、210年台には馬超が驃騎将軍を務め、220年台には皇帝劉禅の外戚である呉班が驃騎将軍を務めていたため、権力構造の中心にいる人物が驃騎将軍の位につくことができるわけです。
家柄が特別高貴であるわけでもなければ、劉備を古くから支えてきた人物というわけでもないのに、大将軍、驃騎将軍に次ぐ地位に至った鄧芝は、相当優秀な人物だったことが窺い知れますね。
実際、当時の蜀では、諸葛亮、蔣琬、費禕、鄧芝の4人を四相と呼び、ひとまとめに評価していたのです。
つまり鄧芝は、諸葛亮の後任を狙えるほどの位置にいたわけで、単なる呉への使いでおわった人物ではないということですね。
蜀の頂点に立てなかったのは性格の問題??
諸葛亮からも評価され、蔣琬や費禕と並び評された鄧芝ですが、蔣琬や費禕に一歩及ばず蜀の政務の頂点に立つことはありませんでした。
これはもしかしたら、彼の性格によるところが大きかったのかもしれません。
鄧芝は清廉な人物であり、部下によく施しをしながらえも自身の私腹を肥やすようなことはしなかったという、非常に高潔な性格であったことが史実に残っています。
ただ、非常に剛毅な性格で、驕り高ぶった態度をとることも多かったようで、士人とうまく付き合うことができず、費禕を含む周りの蜀臣下たちが鄧芝を避けるような状態だったのです。
個人としてはとても立派な性格の人物でありながら、周りとの折り合いがうまくいかず、それが自身の地位を車騎将軍に留める原因になったのかもしれませんね。
それでも、車騎将軍にまで昇ったその能力は相当なものですが。