張昭は後の政治家であり、孫策の代に孫家に従った人物です。
張昭は、孫策が挙兵時にはすでに孫家に従っており、孫権のお目付け役として職務を全うした老臣ですね。
漫画版の三国志では、孫権の横に控えた白髪の老政治家として度々登場し、孫権と繰り返し会話をしているため、印象に残っている読者もたくさんいるのではないでしょうか。
とはいえ、張昭が何をした人なのか、どんな功績があるのか、漫画では全く分からないのが実情です。
それでは、史実の張昭を紐解いていきましょう。
孫策に招かれて参謀となった張昭は君主を上回る存在
史実によれば、張昭は、若い頃から高い名声を得ながらも出仕することがなかった人物でした。
このため、張昭を幕下に加えることが出来れば、それだけでも「あの張昭が出仕するなんてどんな君主なんだ」と世間に名を知らしめることができるのです。
そんな中で、孫策は張昭を参謀として招くことに成功し、これが一因となって世に名前を売ることができました。
張昭からすれば、「孫策の臣下に入らせてもらった」というよりも「孫策の臣下に入ってあげた」といった気持ちであったはずですね。
それだけに、孫策は張昭を離さないように家族同然の付き合いをしており、張昭が北方の士大夫と手紙のやりとりをしているのを聞くと「いずれ自分のもとを離れてしまうのではないか」と心配したことが史実に記されています。
それほどまでに大きな影響力を持っていた張昭は、孫策から政治や軍事に関わる一切の裁断を任されており、孫策がなくなる際には、「孫権に能力がなければ張昭が政権を握ってほしい」という遺言を残しています。
孫策と張昭の関係性は、劉備と諸葛亮の関係性に近いものがありますね。
ただ、この孫策の遺言は、ある種張昭に対する牽制のようなものだとも思えます。
孫策は、「それくらい信頼してるんだからしっかり孫権を補佐してくれよ」という意味で言ったのであって、本心で「張昭が政権を握れ」と言ったわけではないような気がします。
孫権のお目付け役として孫権に煙たがられる毎日
孫策から孫権の補佐を託された張昭は、若い孫権を支え、孫権が道を外れそうになると積極的に讒言を行いました。
君主に対して強い物言いを出来る人が少ない中で、孫策から請われて臣下に入った自身の立場を存分に活かし、孫権に対して口うるさく進言を続けたのです。
張昭のその態度は、孫策の遺言をしっかり守って孫権を正す真っ当なものなのですが、孫権にとっては張昭の讒言が厳しく感じたようで、「好きなようにやりたいけど張昭に止められるから出来ない…」なんてことが日常茶飯事だったため、張昭は目の上のたんこぶのような存在だったと考えられます。
具体的には、張昭は、趣味の虎狩をやめるように讒言したり、酒宴で酔いつぶれた部下に悪事を働くことをやめるように讒言したりと、政務に関わること以外にもその態度をあらためるように逐一孫権を戒めました。
このように断固として讒言を繰り返していた張昭は、徐々に孫権との間に軋轢が生じたようで、事あるごとに張昭と孫権は喧嘩を繰り返します。
とある事件がきっかけで、張昭が孫権の態度に機嫌を損ねた自宅に引きこもった際、孫権は詫びを入れるために張昭の自宅の門前で声をかけましたが、張昭は一向に自宅から出てきません。
これにまた怒った孫権は、張昭の自宅に火を放つという暴挙に出ますが、張昭も頑なに自宅から出ることを拒み、このままでは張昭がなくなってしまうと焦った孫権が慌てて火を消しました。
そして、後日息子に連れ出された張昭が孫権と対面し、お互いに謝罪してこの件は一件落着となったのです。
このように、孫権と張昭とは、君主と臣下という関係では考えられないような喧嘩を繰り返しており、決してその関係性はよくなかったと思われます。
孫権は40~50歳、張昭にいたっては70歳を過ぎていたのにも関わらず、こんな子どものような喧嘩を繰り返していたことを考えると、両者に非があるのかなと思いますね。
相手に譲る気持ちが大切
張昭は、名声もあって優秀な人物であり、呉という国のことを想って行動していたのは紛れもない事実ですが、あまりにも直接的な讒言ばかりをしていたので、結果的に君主から煙たがられ、そのまま一生を終えてしまいました。
もちろん、自分よりも目上の人であっても、その人のことを本気で考えればときには厳しい言葉を投げかけないといけないこともあると思います。
だけど、厳しい言葉が必要なのであれば、その言葉を投げかけたときの相手の気持ちをよく考えて、相手を思いやる気持ちを持つことが大事なのではないでしょうか。
張昭は、そのあたりが器用にこなせなかったように感じますね。
ちなみに、孫権は、張昭なきあと、晩年になってリミッターが外れたように暴挙を繰り返し、結果的に呉の滅亡を早めてしまったので、張昭の存在は意外と重要だったのかもしれまんせん。