于禁は魏の武将であり、黄巾の乱の際に従っていた鮑信が戦士したときに、馴染みのあった曹操の部下となった人物です。
于禁は、魏の五将軍と呼ばれ、張遼、張郃、楽進、徐晃らと並び評されるほどの人物なのですが、おそらく漫画版三国志の読者からすると「関羽に捉えられて命乞いした挙句、蜀に降伏した小物」くらいのイメージしかないかもしれません。
事実、このクラスの武将が敵対勢力に降伏するというのはまれであり、于禁を除く魏の五将軍は最後まで魏の忠義を貫きましたし、蜀の五虎大将軍も蜀の臣下として一生を終えています。
そのため、于禁は「裏切り者」や「小物」といった印象がどうしても強いのです。
それでは、史実の于禁はどんな人物だったのでしょうか?
また、なぜ于禁ほどの武将が敵対勢力への降伏という選択を選んだのでしょうか?
降伏前までの略歴はどこを切り取っても名将
史実における于禁は、少なくとも降伏する前の略歴を参照すると非常に優秀な武将であり、与えられた任務は必ず遂行する寡黙な仕事人のような人物です。
于禁は、曹操と呂布が争っていたときには別働隊を率いて呂布の別陣を二箇所も破ったり、眭固が曹操から離反したときには別働隊を率いて 眭固攻めて打ち破ったりと、一軍を任される指揮官としての活躍が目立ち、単なる武勇だけの将ではなく、将軍の器にふさわしい人物だったのです。
また、于禁は法を遵守することを徹底する厳しい性格であり、反乱の首謀者である昌豨が旧友の于禁を頼って降伏を申し入れたとき、「包囲された後に降伏した者は赦さない」という法を遵守して涙を流しながら昌豨を処分したとのエピソードが残っています。
融通が効かない頑固者のように感じますが、全ては曹操のために与えられた職務を全うすることを最優先してのことであって、于禁はその厳しい性格も含めて人の上に立つ将軍の器だったと言えるでしょう。
命が惜しくて降伏したのではない…かも?!
そんな名将于禁ですが、蜀の関羽が曹仁の守備する樊城を包囲した際に、援軍の将として七軍を率いて樊城へ出向くことになりました。
このとき、于禁は漢水を隔てて関羽軍と対峙しますが、運悪く漢水の氾濫が発生し、七軍もろとも水没してしまうのです。
一方の関羽軍は、陣を移して水没を免れ、用意していた船をつかって水没してしまった七軍の兵士3万人と于禁を捕虜とします。
捕虜となった于禁は、漫画でもおなじみのように、降伏を申し入れ、晩節を汚す結果となってしまいました。
しかしながら、于禁は本当に命が惜しくて降伏を申し入れたのでしょうか?
そもそも、この度の敗戦は、漢水が氾濫してしまったからであって、于禁の指揮に問題があったわけではありません。
それに、これまで曹操軍の一将軍として何度も死線を掻い潜ってきた于禁が、今更自分の命惜しさに敵に降伏するでしょうか?
僕は、于禁に何か考えがあって降伏したのではないかと思っています。
例えば、もしも于禁が降伏しなかったら、一緒に捕虜にされた3万人の兵士たちも処分されてしまう可能性が高いため、兵士たちを守ろうとしたのではないかという推測が出来ますね。
また、史実では関羽軍が于禁軍3万人を捕虜にしたことで兵糧の欠乏に苦しんだとの記述があるので、于禁はこれを狙ったのではないかと考えることが出来ます。
もちろん、事実は歴史の闇の中ですので、実際のところはわかりませんが、于禁の降伏は三国志フリークとして想像を掻き立てられる名場面ですね。
晩節を汚した人間は正しく評価されない
于禁に限らずですが、どんなに素晴らしい活躍をした勇将であっても、最後の最後でやらかしてしまうと、後世では全うな評価が得られない傾向にあります。
于禁はその後、紆余曲折あって魏に戻ることが出来るのですが、その頃のは曹操は没して曹丕が皇帝となっており、曹丕の指令で曹操の墓を参拝したところ、その墓には関羽に降伏する于禁の有様の絵が描かれており、これを見た于禁は腹立たしさと面目なさで病に倒れて病没してしまいます。
何とも悲しい最後ですね。
皆さんも、于禁を教訓として、最後まで気を抜かずに晩節を汚さない生き方を心がけましょう。